「今度から悪さしたら、これ使うからね」
お姉ちゃんはそう言って、買ったばかりのカッティングボードを見せびらかしてきた。長さが三十センチ、幅が十五センチくらいの分厚い板で、なんのためなのか取手のような出っ張りが付いている。
「そりゃ、悪い子のお尻に使いやすいようにじゃない?」
ブンブン振り回したり、木目を指でなぞったりしながら、お姉ちゃんは楽しそうに、今日だけは粗相も大歓迎とか言っていた。何度か自分の手のひらにバシッと空打ちしては、これじゃ強すぎるかな……などと思案している。本当にそんなので叩くの?と、聞くと――
「当たり前じゃん。そのために二時間半も掛けて、一番表面がなめらかなヤツを選んできたんだから」
見て、この艶!と、僕の目前に押し付けてくる。確かに木の表面は綺麗に磨かれていた。ちょっと持たせてもらうと、しっとりと適度な摩擦がある表面、そして、ズシッとくる意外な重さ。これは……危険だ……。
「だって、お布団叩きだとミミズ腫れになっちゃうでしょ?皮とか剥けたらかわいそうじゃん」
じゃあ、これも無しにしてよ!僕がそう言うと――
「ダメダメ、やっぱり怖くなる程度には痛くしないとね。ちょっと痛いくらいだけど効果が無いお仕置きを繰り返すより、すごく痛いけど効果抜群なお仕置きを一回で済ます方が、トータルの痛みは減るし」
お姉ちゃんなりのお仕置き理論。その割には何度も何度も、ちょっとした事でお仕置きを言い渡されるのだけど。
「それは君が悪い事をするからでしょ。日々の反省が足りてないなら、今からお尻温めるかい?」
いえ、大丈夫です、と断る。昨日だって洗い物を忘れていて、布団叩きで洗ってない食器の数だけもらったのだ。今朝見たら、少しだけ痣になっていて、押すとじわっと痛かった。
「でしょ?アレ危ないから、だからコレを買ってきてあげたわけよ」
カッティングボードを突き出しながら、ドヤ顔でにんまりするお姉ちゃんにお礼を言う。そうしないと、礼儀知らずで早速出番になるかもしれないからだ。
「あれ、お礼言えてる……。いつものお仕置きが効いてるのかな……?」
なぜか少し残念そうなお姉ちゃんを怪訝な顔で見つめ返しながら、僕はカッティングボードの出番が来ないことを強く祈った。
……
さて、遅ればせながら、我が家ではお仕置きがある。それも時代錯誤なお尻ペンペンという方法だ。本当に小さい頃は両親から姉弟揃ってペンペンされていたけれど、先に向こうが高校を卒業したのを境にして、歳の離れたお姉ちゃんが僕のお仕置きをする事になった。
両親曰く、その年で親から叩かれるのも抵抗があるだろう、との事だったが、だからと言って姉ならOKと考える理由はさっぱりだった。
まあ、本当のところでは忙しいからというのもあるのだろう。お仕置きは事前のお説教や事後のアフターケア、それに伴う精神的な負荷までを含めると、家事育児の中では結構しんどい種目らしい。
初めてお姉ちゃんからお仕置きされた時は、お互いに、なんとも言えない雰囲気だった。ちなみに、僕が洗濯物を脱衣カゴまで持っていかず、部屋にそのままにしていたのが理由だ。
「えぇと、あー……お仕置きするからお尻出しなさい!」
「……まじで?」
棒読みのお姉ちゃんのお仕置き宣告に、僕はまだそれを本気で捉える事ができなかった。
「ま、まぁ、頼まれてるし……。じゃなくて、言うとおりにできないと数が増えるよ!」
お姉ちゃんも相当恥ずかしかったのか、あからさまに赤面しながら脅し文句を続けていた。
「ぷっ……」
「あははは……っていやいや、笑っちゃだめだよ、お仕置きなんだから」
我慢できずに二人で笑い転げた後。それでも日々の両親からのお仕置きの習慣付けで、二人とも粛々とお仕置きの準備を始めた。逆らうと全部お尻に返ってきたし、やめてと言ってやめてもらえたこともないが故である。
普段はどちらかと言えば(体罰の無い家の子と比べても)甘めな両親の、唯一、譲らない教育方針がこれだった。悪さには罰が付きもの、そして、どんな理由でもお仕置きだけは絶対だったのだ。
「大きくなったねぇ」
「しみじみと言わないでよ!」
なぜか感慨深げなお姉ちゃんに文句を言う。お尻を出して床に手をつく(もちろん下着も足首まで下ろす)だけでもマキシマムに恥ずかしいのに。
「いやいや、マキシマムに恥ずかしいのは、ペンペンした後のベランダでのお立たせでしょ……ってのは、今日はやらないからともかくとして、一緒にお風呂入ってた頃と割と違うからさ」
「ちょっ!!触んないでよ!!」
生意気に筋肉とかちょっとあるし、とか言いつつ、お尻を指で突かれる。下はまだ……?なんて覗き込まれそうになり、慌てて膝を閉じて守りに入る。
「あれあれ、お尻が引けちゃったぞ。お母さんなら追加されちゃうよ?」
ニヤニヤしながらお姉ちゃんが言う。意地悪すぎる、そして、セクハラすぎる。恥ずかしさにちょっとだけ涙が滲んできた。
「あー、ごめんごめん。ちゃんとお仕置きしてあげるから、もう一回、足伸ばしてお尻上げて」
ピシャピシャッ!と、手で軽く促されてお尻を上げる。膝をピンと伸ばして腰を反らし、少しでもお尻が相手の方を向くように。これが小さい頃から体に教え込まれた、お仕置きのポーズだった。
「よし、三十発。しっかり我慢して心に刻むこと。いくよ!」
すっ、と衣擦れの音がして、背後で腕の振り上がる音がする。
バスッ!!
『いった!?』
予想外に籠もった音と同時に、二人の声がハモった。バシッと上手く弾けず染み込むように炸裂した重い打擲は、僕のお尻だけじゃなく、お姉ちゃんの手の平にもダメージを与えたらしい。
「や、ごめん……!もう一回ね」
「ええ、まさかノーカン!?」
「いやぁ、さすがに二発目からで……ごめんて」
その後、二度三度、同じように打ち損ねる事があったものの、最終的にはお母さんと遜色無いくらいの平手打ちで、バチンバチンと小気味よくお尻を真赤に染められたのだった。
もちろん、こんなのは後から振り返っているから言える事で、当時はビリビリ疼くお尻の痛みに涙を滲ませつつ、それでも必死で瞼からこぼさないように、目を半開きにして堪えるのが精一杯だったが……。
……
「さあ、今日もお尻だよ」
「はい……よろしくおねがいします」
「よーし、じゃあお尻出してこっちに向けてごらん」
そんなやりとりが日常と化し、お姉ちゃんからのお仕置きにも大分慣れてきた頃、僕のお仕置きにも布団叩きが導入された。
「この子も大きくなったし、最近、だらけてるように見えるから、そろそろこれを使ってあげなさい」
お母さんから託されたそれを、お姉ちゃんは苦笑いのような半泣きのような、それでいて納得したような、実に微妙な表情で受け取っていた。
「あー、まあ、そろそろだよねぇ、たしかに」
これ痛いんだよねぇ、と言いながら素振りしているお姉ちゃんの姿は、やや腰が引けていた。そういえば、一昨年辺りまでは、お姉ちゃんもこれで日々ギャーギャー泣かされていたのだ。
激怒したお母さんから、半分物置と化したお仕置き部屋に行くように言われると、さすがのお姉ちゃんも最初の数回は縋り付くようにして、お仕置きの取り消しを懇願し(しかし、その度に追加の罰を貰って)、大人しく受け入れるようになってからも、唇をぎゅっと噛み締めてお仕置き部屋に向かう印象的な姿を何度か見送った事があった。
そして、その後は決まって扉越しにくぐもった大きな泣き声と、許しを請うごめんなさいの叫びが聞こえてきたのである。ああ、ついに僕もあんな目に合わされるのか……。諦めていたとはいえ、いざとなると憂鬱だった。
今時、厳しすぎるのでは?なんて言ったら、きっとお姉ちゃんのように追加の罰を貰うだけなので、ぐっと飲み込んだ。もしかしたら、お姉ちゃんもそう思ってくれるかもしれないけれど、お母さんの手前、お仕置きを緩める事はできないだろう。
仮に一時的にお仕置きが甘くなっても、きっといつか抜き打ちでお尻を確認されて、お姉ちゃんごと何倍も厳しく叩き直されるのが落ちなのだった。
「あの、よろしくおねがいします」
なので、せめてお互いのストレスが減る様に僕が声をかけると――
「あ、はい、こちらこそ……」
お姉ちゃんも使い込まれた布団叩きを握りしめたまま、ペコリと頭を下げてみせた。
「じゃあ、あの……早速で悪いんだけど、今日、玄関の靴が揃ってなくてですね……お仕置き部屋で待ってるから……」
「は、はい……すぐに行きます……」
辿々しくも、初日の布団叩きの味は途方もなく激辛で、たった八発打たれただけで、夜中過ぎまでお尻が疼いて眠れなくなったのみならず、翌朝、お仕置き痕のチェックと同時に湿布を貼られた僕は、学校で必死に太腿を攣ったと言い張って湿布臭さを誤魔化す羽目になったのだった。
……
さらに時は流れて、いつの間にやら過酷な布団叩きの扱いにも、お互い慣れてしまったころ、お姉ちゃんが嬉しそうに言ってきた。
「お道具を変える許可、貰ったよ!」
わあ、嬉しい!なんて返すはずもなく、その時の僕はなんの事やら分からずに、やり遂げた風なニュアンスさえ称えるお姉ちゃんの表情に、不思議そうな視線を返すばかりだった。
「お仕置きのお道具だよ。布団叩き以外でも、充分に威力があれば使っていいってさ!!」
「ええ……なんでまた、そんな事を……」
あれじゃ足りないのか、もっと僕を痛めつけたいのか。お姉ちゃんは鬼なのか。そう思って涙目になる僕に気づいて、お姉ちゃんは慌てて訂正した。
「違う違う!布団叩きは鋭いから、傷になるかもでしょ?だから、のっぺりして広い面で当たるお道具の方が、同じ叩かれるのでもマシかなって……」
キミのために頑張ってプレゼンしたんだよ、なんて言われたが、いったいなんと応えたらいいやらである。お尻の傷を慮ってくれるのはありがたい、でも、人のお尻の事で、お母さんとお姉ちゃんが話し合いをしていたと思うと、なんとも言えない羞恥というか、辱めというか、言葉にならない感情が生まれたのであった。
「明日、ちょうどいいの探してきてあげるからね」
喜べとばかりに頭をゴシゴシ撫でられて、僕は結局、お姉ちゃんの労力と思いやりに対するお礼を言いそびれて、最後の布団叩き三発を貰ってしまったのだった。
で、肝心のカッティングボードの味は……そうだなあ、まあ、これはまたの機会に語ることにしよう。